大人になってからプレイするドラクエ4(下)
第1回はこちら。
http://kanoh.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-abe9.html
第2回はこちら。
http://kanoh.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-b169.html
ドラクエ4には、わかりやすく、美しい対比が、いくつも仕込まれていて、それがここちよい。
RPGの文脈では、「魔王と勇者」が対比されやすい。魔王を勇者がやっつけるお話だから、それは当然なのだけれど、ドラクエで厳密に考えると、ちょっと変かなと思えるところがある。
というのは、ドラクエは、お城の王様に会って「魔王を倒してこい」と言われるところから始まることが多いからだ。
お城の王様の謁見場から話は始まって、海を渡った向こうに見える、あの魔王の城に行って、魔王をどついてきたら終わり、というお話だ。
人間の王様の前から始まって、魔界の王様の前でおわる。
そしたら、魔王と対置するべきものは、人間の王、いわば「人王」とするのが筋なんじゃないだろうか。
ヤクザの抗争に例えれば、魔王は魔界組の親分、人王は人間組の親分だ。この2つの組はナワバリをめぐって対立している。人間組の人王親分が、あいつのタマぁ取ってこい、といって、ドス持った鉄砲玉を差し向ける。それが勇者だ。
そういうことで、魔王と鏡うつしになるのは人王だとする。
となると、勇者は何と対比させたらいいんだろう。
勇者と対置するものが魔王でないとするなら、何だろう。
たとえば、魔界側にも、勇者のような存在があって、魔王から「あの城にいる人間の王を始末してこい」なんて言われていたりするんじゃないだろうか。
といったことを、堀井雄二さんが考えたか考えなかったかは定かではないけれども、ドラクエ4では、魔界の勇者ピサロというキャラクターがいて、すごい存在感をはなっている。
じっさいに、ピサロとその手下は、人間の王様を何人か、片付けたりさらったりしている。
その一方で、プレイヤーが操る人間側の「勇者」は、魔界の王エスタークを、物語中盤で倒してしまう。本来なら、最後の最後でやっと倒すような大物を、ストーリー半ばで片付けてしまう。
魔界側の勇者は人間界の王を仕留め、人間側の勇者も魔界の王を仕留めて、抗争は一進一退、といったかたちを見ることができる。互いの組の鉄砲玉が、大物のタマを取り合って痛み分けといったところだ。
そして物語は最終的に、ピサロと勇者が相打って、はたしてどちらが勝利するのか、というクライマックスになだれこむ。魔王vs.勇者、という、従来のドラクエの不均衡な対決ではなく、魔界の勇者vs.人類の勇者、という最終決戦をドラクエ4は提示する。
しかも……これはやった人が誰しも気づいていると思うけれど、ドラクエ4は、ピサロと勇者に、まったく同じ心の傷を与えている。
勇者には、シンシアという恋人がいたが、彼女はピサロに殺される。
ピサロには、ロザリーという恋人がいたが、彼女は人間に殺される。
同じ境遇をあたえて、鏡うつしのようにする。相手を憎めば、それだけ相手のことがわかってしまう。同じ境遇だから。
そんな2人が、最後に打ちあう。どちらが勝っても、片方の復讐は果たされることになる。
そういう、ちょっと苦いお話が語られて、その苦さがまたいいんだけれども。
☆
リメイクされたPS版では、第6章ピサロ編というのが追加された。
これは、メインストーリーが終わったあと、勇者とピサロが仲間同士になって、本当の黒幕であるエビルプリーストをやっつける、めでたしめでたし、というお話でした。ロザリーが殺されたのはエビルプリーストの陰謀であって、それはピサロに絶望を与えて魔王化させるためだったのです。
これは、少年ジャンプ的な高揚する展開で、楽しく遊んだんだけれども。
あとになって、やっぱりちょっと、うーん……と思ったのだった。
もし私がシナリオライターだったら、勇者とピサロが同行するのはよいとして、エビルプリーストを倒したあと、もう一度、勇者とピサロを対決させてしまうと思う。
そんな簡単にわだかまりを払拭できるもんか、と考えて、そうしてしまうような気がする。たとえば以下のような感じ。
……いちばん悪いのはエビルプリーストだ。それはピサロにはわかっているし、勇者にもわかっている。
それはわかっているのだけれども、それでも、ロザリーを殺したのは人間なのだし、シンシアを殺したのはピサロなのだ。
そこをのみこんで、手をとることなどできない。
目の前の相手がいちばん悪いわけではないし、相手にも悲しい事情があったことはわかっている。わかっているどころか、その気持ちをいちばん身にしみて理解できるのはこの自分だ。
それでも。
それでもやはり、こいつと手を取り合うことはできない。
そういうふうにして、もういちどこのふたりで決戦させてしまいそうだ。
FC版のクライマックスで、勇者の前にあらわれるピサロは、憎しみのあまり、怪物化して、自我をほとんど失い、ただの戦う機械のようになってしまっている。
それは、「どんなに感情移入できても、もうピサロは倒すしか方法がない」という状態にすることで、プレイヤーがわだかまりなく、迷いなくラスボスと戦えるようにするためだと思います。(ドラゴンボールでも、わりとそういう処理が頻出しますね)
本編ラストがそうういう感じなのだから、追加シナリオである第6章では、自我を保持した、知性のあるピサロとあえて戦い、ついに決着をつける……そういう展開を見たかったなという気持ちが、けっこう強くあります。自分だったらそういうふうに書いてしまうだろうと思う。
第6章は、進化しすぎてもはや自我を無くしたピサロを怪物としてやっつけるのではなく、自分自身を取りもどしたピサロを、一人の人物として扱い、それでもなおピサロと決着をつけねばならない物語であってほしかった、と、思うのです。
そうは思うのだけど。
でも、PS版ドラクエ4が、そうならなかった理由は、よくわかる。
一言で言うと、私が言ってるのはこれは、ファイナルファンタジーの方法論だ。
そんなような、めんどくさい場所にプレイヤーを連れて行ってジレンマで立ち止まらせたりはしない。そこが良くて、ドラクエは愛されているのですね。
悪い奴を気持ちよくやっつける、というわかりやすさを、時々ふらつきながらも決して外さないところが、ドラクエのドラクエたるゆえんなのです。ドラクエ4は、そのスタンスがかなりふらついている(あえてふらつかせている)けれど、最後の最後で、ぴしっとその一線はまもる。
堀井雄二さんは、前3作で王道すぎるほどの王道をやった結果、そこから少しズレたくなった、その気持ちの反映がドラクエ4の物語であり、またピサロという「人として気持ちを理解できる」悪役の存在なのだと思うのだけど、それでもドラクエ4は、「やっつけるべき敵を、迷いなくやっつける」というラインを外してはこない。
それは実に凄いことであって、ちょっと私なんかは永久に真似できないかもしれない。堀井雄二さんの書くものには、明らかな屈折が感じられると常々思っているのだけど、そういう物語の大きなところでどうして屈折せずにいられるのかなということを不思議に思っています。
でかいな。
追記
ドラクエが第4作めで「魔王というのは、いったいどういう存在なのだ?」ということを描くことになったのは、「ウィザードリィ4」のオマージュ的な意味があったのでは、という考え方もできるかもしれない。ウィザードリィ4は、前3作とは趣向が異なり、プレイヤーが魔王になって地上を征服しにゆく物語です。ドラクエ4を作るとき、「Wizは4で何を描いていただろうか?」というリサーチがあった、という想像はそれほど難しくない。
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